26. 既視感のある場所

私はライター以外に、自閉症障害者施設で指導員という仕事もしています。子どもの頃から海外と日本を行き来して飛び回る仕事に就きたいと願い、就職活動もマスコミやバイヤーのような職種を狙っていました。そんな私が、外資系企業で働いていた縁で国際結婚し、フィンランドに移住したところまでは良かったのですが、「海外で働く」ことのハードルは思いのほか高く、何年も私の前に立ちふさがっていました。
靴家さちこ 2021.11.17
誰でも

子どもに障害がある疑惑

<i>かんしゃくを起こすほどではなかったものの、車の並べ方がとても丁寧だった長男。実家の畳の部屋で夢中になって遊んでいたので大きくなってから理由を聞いたら畳のへりが本物の道路っぽくて良かったのだとか。</i>

かんしゃくを起こすほどではなかったものの、車の並べ方がとても丁寧だった長男。実家の畳の部屋で夢中になって遊んでいたので大きくなってから理由を聞いたら畳のへりが本物の道路っぽくて良かったのだとか。

2004年の3月、私は両親に手伝ってもらって飛行機に乗り、まだ7カ月だった長男を連れて、元夫の故郷フィンランドに移り住んできました。日本が気に入って未練を持ちながらも、長居すると帰国してからのポジションが無くなるからと慌てて帰国するフィンランド人駐在員を何人も見送ってきたので、元夫が「いよいよその時が来た!」と帰国の意思を表明した時もあまり驚きませんでした。

とはいえ、私は当時フィンランド語を話せませんでしたし、元夫も次は英語圏のどこかが新たな海外赴任先として頭に浮かぶようだったので、当時は二人で長男にも英語で話しかけて育ており、さらにその数年後には英語圏で暮らすことを考えていました。

父の仕事で子どもの頃バンコクに暮らし、インターナショナルの幼稚園に通っていた私は、あの色とりどりでダイナミックで、クリエイティブな図画工作が楽しかったあの環境を思い出し、息子にも同じ体験をさせてあげられることを楽しみにしていました。結局、もともと高齢だった元夫の両親の老化が進み、介護が必要になり、英語圏に住む夢が断たれるまでは。ネウボラ(子どもの妊娠出産から就学前までの家族の支援センター)で、両親が母語以外で話していることが長男の言語の発達の遅れの原因と指摘され、保育園でさらに、長男が「自閉症なのでは?」と指摘されるまでは。

ネウボラには両親そろって足を運ぶもの、少なくとも第一子ぐらいはという社会的な圧力があるフィンランド。子どもに発達障害が疑われる場合、両親の様子も一緒に観られる利点がある。Riitta Supperi/Keksi/Team Finland

ネウボラには両親そろって足を運ぶもの、少なくとも第一子ぐらいはという社会的な圧力があるフィンランド。子どもに発達障害が疑われる場合、両親の様子も一緒に観られる利点がある。Riitta Supperi/Keksi/Team Finland

長男は確かに、3カ月の頃から私か元夫の胸の上に乗せないと寝られない子どもでした。首が座ってからも私の鎖骨に頭をのせたままピッタリくっついて、急な大きな音がするとビックリして激しく泣きました。それでいて、あまり人との交流を強く求めることもなく、同じ遊びを一人で何度も繰りかえす、手のかからない子でもありました。日本から持ってきた母子手帳や育児書を読むと、この月齢ではあれもこれもできるようになるというリストからことごとく遅れているので、読むのが苦しくなりました。

私に友達がいなくても

我が子ながらミステリアスだなぁと思っていたら、自閉症だとは。藁にもすがる思いで日本から取り寄せた専門書を読むと、自閉症の特徴は「人との交流が苦手で、友だちができにくい、人の気持ちがわからない、教室の中にポツンと一人いる外国人みたい」と書いてありました。「……外国人って私のことじゃん」来る日も来る日も、見た目がこの通りで話す言葉が日本語の私たちは、フィンランド人母子が集まる公園では水の中の油のように浮いていました。私は、もしかして自分が外国人であることは息子をより良くわかってあげられる利点になるのではと、希望を持ちました。

一方、日本での海外生活のストレスのせいだと思っていた元夫の気難しさはフィンランドでも変わらずで、私が新しくフィンランド在住の日本人や日本に住んでいたフィンランド人と出会って楽しかった話をすると、それらの人達と家族ぐるみの交流を嫌がる発言をしたり、不機嫌になるので私の交友範囲はなかなか広がりませんでした。「……友達がいないっていうのも私のことじゃん」そんなことを思いながら長男をのせたベビーカーを押すスーパーからの帰り道、私は近所の高校の庭を横断していました。

<i>「ここに息子の居場所はないのか」と切なくなってしまったあの日。 Pia Inberg / Visit Finland</i>

「ここに息子の居場所はないのか」と切なくなってしまったあの日。 Pia Inberg / Visit Finland

楽しそうに並んで座って談笑にふけるフィンランドの高校生たちがまぶしくて、ふと「外国人になる覚悟をして移住してきた私はそれでいいけど、何の罪もないこの子に友達ができないのはちょっと……」と、事態の重さを実感してしまった時、私は涙と鼻水をぼたぼたとアスファルトに落としていました。言語の発達の遅れから、まだ障害の診断もできず、障害の重さも、この先の展望も、私が働ける可能性も何もかもが見えなくなってしまったあの日。私は、涙を全力でこらえると甲状腺が痛くなることを知りました。

グレーな世界を知る

あれから15年。普通の学校に就学して普通学級に入れるのかどうか、という瀬戸際で「軽度なアスペルガー症候群」という診断名がつくまでも、ついてからも、長男はいつの間にかフィンランド語を母語にすえ、それを元に順調な発達を遂げました。あの日私が泣きながら通り抜けた高校は、彼が今通っている母校です。友達は小学校時代から高校でも広がり、愉快な仲間たちと楽しそうに青春を謳歌しています。

2000年代初期のフィンランドは国際化が進んで、髪の毛の色や肌の色が人と違ってもあまり気にならない学校時代を送れたという長男。人当たりがよく、周りの空気がよく読めたので集団生活には支障が無かった。

2000年代初期のフィンランドは国際化が進んで、髪の毛の色や肌の色が人と違ってもあまり気にならない学校時代を送れたという長男。人当たりがよく、周りの空気がよく読めたので集団生活には支障が無かった。

彼が保育園で見せた「エコラリア」と呼ばれる自閉症者独特の言葉の復唱や、独りで黙々と砂場に描いたミステリーサークルや竜安寺の石庭、あれは一体なんだったのか。あの全身で人との交流を避けているような態度は、母親の私の目にも自閉的に見えましたが、私のインターナショナル幼稚園時代と重なるものもありました。英語が話せないから独りごとをブツブツいったり、友達がいないので巣穴に続々入って行くアリの行列をしゃがんでじーっと見つめていたあの時と。

とはいえ、なかなか目が合わなかったり、「クレーン」という、相手の手を取って自分の意思通りに動かそうとする自閉症者独特の行為も顕著でしたし、小学校低学年になるまで公共交通機関の音を耳でふさぐ聴覚過敏は続いたので、誤診だったとはいい切れません。長男はいわゆる「グレーゾーン」なのかもしれません。世の中には、専門家でもハッキリと白黒つけられないことがあるということも、自閉症は私に教えてくれました。

フィンランドの雪と闇の世界にも、黒と白と灰色のグラデーションが無尽蔵に広がっている。

フィンランドの雪と闇の世界にも、黒と白と灰色のグラデーションが無尽蔵に広がっている。

アシスタントを目指す

長男が自閉症なら、次男にも何かあるだろうと覚悟をしていたら、フィンランドで生まれた元気いっぱいの赤ちゃんは言語能力が壊滅的でした。確かに一つの家庭に、英語とフィンランド語と日本語が飛び交い、彼を連れて通っていた外国人母子のファミリーセンターでは、アルバニア語にタイ語にポルトガル語も飛び交っていたので混乱してしまったのでしょう。私はうちひしがれました。

長男は保育園の集団生活がリハビリ代わりになったので、次男も、と思っていたら、元夫が仕事を辞めてしまって保育園に預けにくい状況に陥り、当時住んでいたケラヴァ市は人口増加で保育園の入園が難しくなっていました。やがて元夫の仕事の都合でトゥースラに住み始め、3歳半になってからやっと保育園デビューを果たした次男は、何をいっているのかわからなすぎるので、専任のアシスタントがつくようになりました。

私のことを「ママ」とも「äiti=フィンランド語でママ」とも呼ばず「チカチコ(さちこ)」と呼んでいた次男。他に彼の口から出ていた言葉は「ラリラリラリラリ」。

私のことを「ママ」とも「äiti=フィンランド語でママ」とも呼ばず「チカチコ(さちこ)」と呼んでいた次男。他に彼の口から出ていた言葉は「ラリラリラリラリ」。

つけ爪につけまつ毛とタトゥーというお洒落なアシスタントでしたが、次男を障害児としてではなく、ひとりの子どもとしてしっかり向き合ってくれていたようです。面談の時には次男が怒られた時に上を向いて目をぱちぱちさせて涙をこらえるモノマネもご披露してくれて、ああ、負けず嫌いなこの子のことを良く見てくれているんだなぁと温かいものがこみあげてきました。

既視感のある場所

そんな次男がお世話になったアシスタント職に就きたくて、離婚してからすぐに福祉の総合資格であるラヒホイタヤの養成コースに通うと、約2年で卒業することができました。それから派遣で保育士の仕事をしながら、翻訳コーディネーター業でも独立をし、家計を支えるための働き方を模索していた時、私はふらふらと母校の就職フェアに来ていました。そこで、保育園もいいけど、より私にとって身近だった発達障害に関わる仕事はないだろうかと、それらしきブースに寄ってみたら立っていたのが今の上司です。

私の今の職場は、自閉症の人達の障害者ホーム。絶対に視線を合わせようとしない人、質問をすると必ず復唱をする人、独特な発話をする人、クレーンのように相手の手を引いて意思疎通を図る人、音に敏感な人、モノローグをする人、一つ一つの行動やプロセスに強いこだわりがある人たちが住んでいます。

聴覚過敏で乗り物の音が苦手だった長男は、プラレールとの出会いから電車好きになり、耳をふさいぎながらでも電車の旅を楽しむようになった。小学2年生の頃、耳をふさぐのをやめて今日に至る。

聴覚過敏で乗り物の音が苦手だった長男は、プラレールとの出会いから電車好きになり、耳をふさいぎながらでも電車の旅を楽しむようになった。小学2年生の頃、耳をふさぐのをやめて今日に至る。

このようなユニークな入所者さん達と初めて会った時、私は戸惑いよりも、どこか懐かしい感じがしました。かつて息子達がしてきたこと、息子達の障害を知るために読んだ本に書いてあったユニークな特性の数々との再会。息子達が運よくクリアしてしまって、もう今ではほとんどみられることが無いそれらがなぜか温かく、古い友人のように感じられました。

入所者さん達がいるこの職場は、もしかしたら私の息子達が将来お世話になっていたかもしれない場所でもあります。なので、複雑な既視感を覚えながらも最大の誠意と敬意をこめて、今日も私は同じ建物のドアを開きます。「パイヴァ~(こんにちは)!」といいながら。

<b>靴家さちこ:(くつけ さちこ)</b>フィンランド在住ライター。青山学院大学文学部英米文学科を卒業後、米国系企業、ノキア・ジャパンを経て、2004年よりフィンランドへ移住。共著に『ニッポンの評判』『お手本の国のウソ』(新潮社)、『住んでみてわかった本当のフィンランド』(グラフ社)などがある。   

靴家さちこ:(くつけ さちこ)フィンランド在住ライター。青山学院大学文学部英米文学科を卒業後、米国系企業、ノキア・ジャパンを経て、2004年よりフィンランドへ移住。共著に『ニッポンの評判』『お手本の国のウソ』(新潮社)、『住んでみてわかった本当のフィンランド』(グラフ社)などがある。   

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