25. 死の月と故郷にまつわる話
雨が落葉を促す晩秋は「もうこのまま冬眠しよう」と思うくらい眠い 画像:Toni Panula(c) Visit Finland
私が今の職場である自閉症障害者施設で働き始めたのは、2020年の3月。約一年半たったところで、やっと一通りの仕事がこなせるようになり、フィンランド人の同僚とも小話が弾んでくるようになりました。フィンランド人はよそ者に対しては特にシャイなので、外国人の方から話しかけていかないと小話は始まりません。不器用者の私は、仕事のやり方を身に着けることで精一杯で、雑談に入って行けない疎外感にはさいなまれながらも、雑談の技術を磨くことは後回しにしていました。
日本で働いていた時は、特定の話しやすい人にすぐに頼らないで、仕事で関わる全ての人に均一に接することを心がけていたのですが、フィンランドに住んで初めての正式な就業体験なので、苦手な人を避けることはやむを得ないと自分を許すことにしました。例えば気分の浮き沈みが激しい人、言葉がきつい人など――その日は、まさにそれに該当する苦手なおばさん職員と久しぶりにペアの日でした。
おばさんは効率的で正確な仕事を自分にも相手にも要求する人で、入所者さんのお世話にはデイケアセンターや身内の方たちや医療機関とのやり取りも含まれるのに、フィンランド語もおぼつかない外国人が指導員として働くことを良しとは考えていません。それでいて、外国人が相手でもペースを落とさずに普通の話し言葉のフィンランド語で話しかけてくるので、特別扱いをしないこと=差別をしないこと、という考えもあるのでしょう。おかげさまで、彼女と話すには職場で一番上級レベルのフィンランド語力を要します。
何も話すことが無い時の沈黙に葉っぱも凍るフィンランド。ウソです
やや緊張しながらオフィスに入ると、おばさんは機嫌が良いらしく、私をキッチンに促してコーヒーを淹れてくれました。窓の外は叩きつけるような雨。私は入所者さんと散歩に出かけなくてもいいのでラッキー♪と思いながらも、それを悟られないようにおばさんにいいました。「またこういう季節ですね」と。どんより曇って色を失った世界。私と同じものを瞳に映しながらおばさんは聞きました。「ねぇ、いつか日本に帰りたいって思わないの?」と。
「ああ……」と少し驚いたような顔をしてみせると、おばさんは「答えたくなかったらいいのよ」と慌ててしまったので「いや全然悪い質問じゃありません。ただあんまり考えたことがなかったもので」と断ったうえで本題に入りました。「まず私はフィンランド人と離婚をして共同監護で育てている子どもがいますからね。長男はもう成人しましたが、次男の共同養育が終わるまであと5年はフィンランドに住まなければなりません」その動かない事実をぺらぺらと吐き出しながら、私は考えていました。
フィンランド人を喜ばせる外国人のお手本的な回答は「この美しい自然に、サウナとマッカラ(ソーセージ)があったら、もう他に何も要りませんよ!」のようなものなのかもしれないと。しかし、こうも考えました。私はここで器用に「外国人」を演じるのではなく、素のままの「私」でありたいと。
七回火にくべても燃えないほど強いといわれるナナカマド。どす黒い実をつけたまま雪をかぶって冬を越すしぶとさに親近感をおぼえている
そこで私は言いました。「フィンランドに限らず海外に住んで居る日本人の多くは、人間関係のシンプルさを心地よく感じるものです。アジア圏の人口が多い国出身の人は、海外に出ることで多くのしがらみから解放されるので」「あとあの忙しさ……スケジュール帳いっぱいに何をそんなに詰めこまなきゃならないのか。その限られた時間に誰とお茶を飲むかでもまた、他の友人も呼ぶべきかどうか悩んでしまったり……」あのまま日本に住んでいたら私が続けていたであろうあれやこれが脳裏に浮かびました。
「そういうのは私たちの間でもあるわよ。キリがないから制限するしかないんじゃない?」というおばさんは、身に覚えがあるのかな。社交的な人なので無理もなかろうと思いました。「そうですねぇ。あとは人と比べたり、競争する機会が嫌でも減りますね。これも気持ちを穏やかにします」
街がどんなに雨でぬれても、外から帰って来てほっと一息つける家さえあれば大丈夫 画像:Visit Finland
「どこの学校を卒業したか、どんな会社に就職したか、自分のことが終わったと思ったら、今度は子どもの番。持ち家か借家か、親のために大きな二世帯住宅を建てたか。親がどう思うかを気にしたり、自分がどうしたいかはさておき、親が誇りに思うであろう人生の選択をしたり」
私の言葉がどこまでおばさんに届いたかはわかりません。窓を伝うしずくが、ゆっくり流れ落ちていきました。「フィンランドに居ると、そういことを一切考えずに、私は私の給料でなんとかまかなえる今の生活を、小さな賃貸のアパートを愛しむことだけに集中できるんですよ」
おばさんは、私のことを人嫌いの哀れな日本人だと思ってしまったかもしれません。別に日本のことも、日本にいる誰のことも、逃れたいほど嫌だったのではないけれど。ただその真っただ中に身を置くことはせず、ほどよい距離で恋しく思い、ありがたみを知る。これが私が選んだ祖国日本との関わり方、というだけのことなのです。
見方によってはギリシャに見える冬のヘルシンキ大聖堂 画像:Jere Huttunen (c) Helsinki Marketing
コーヒーカップを握ったまま宙を見つめるおばさんに、今度は私が聞く番でした。「こういう季節から逃れるために、リタイアしたらスペインとか、どこか南の方に住みたいですか?」と。おばさんの目が輝きました。「私はギリシャよぉ~!!」フェタチーズやナスの素揚げが好きで、よくサラダに入れて食べている彼女らしい回答でした。「それピッタリですね、ギリシャいいですね!」
私はさんさんとふりそそぐ太陽を浴びながら第二の人生を謳歌しているおばさんの姿を目に浮かべ、心の中で拍手をしました。青い海と白い漆喰の建物はフィンランド国旗の色。人生の半分を漆黒の闇と寒さに耐え続けたフィンランド人の第二の故郷にふさわしい、まばゆい景色が広がりました。
靴家さちこ:(くつけ さちこ)フィンランド在住ライター。青山学院大学文学部英米文学科を卒業後、米国系企業、ノキア・ジャパンを経て、2004年よりフィンランドへ移住。共著に『ニッポンの評判』『お手本の国のウソ』(新潮社)、『住んでみてわかった本当のフィンランド』(グラフ社)などがある。
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