13.愛憎のフィンランド語
2つの公用語
Niko Laurila / Visit Finland
ここ20年近く続いている北欧ブームのおかげで、今ではフィンランド語の存在が幅広く認知されていますが、意外と多くの人がフィンランドを英語圏だと誤解するのは、「ランド」で終る英語の国名が原因なのでしょうか。ちなみにフィンランドのフィンランド語名は、Suomi(スオミ)。日本が英語だとJapanなのと同じくらいに違います。
フィンランドの公用語は、フィンランド語とスウェーデン語です。西隣の国なので両方の言葉がバイリンガル的に話されている印象を与えますが、スウェーデン語を母語とする話者の人口はわずか5%ほどです。
そしてフィンランド語とスウェーデン語の両方が日常的に使われている地域は、主に西海岸側なので、南部の首都圏に住む私は日常生活をフィンランド語だけで生き抜いています。
まずはやる気を出す
2004年3月に、無職で、7ヶ月の乳児連れで移住して来た時、私は手に『エクスプレスフィンランド語』という、当日希少だったフィンランド語の入門書を持っていました。
2002年までノキアというフィンランド企業の日本支社に勤めており、多くのフィンランド人は英語が話せて、しかも日本人にわかりやすい英語だったので、英語でもイケると思っていましたが、住むからにはその国の言葉をマスターしようという志を持っていました。
出張でフィンランド国内の英語環境は試しており、外国人は英語だけでも5年は不自由無く暮らしているという話も聞いていたので、当面は英語で生きのび、暮らしながら子どもと一緒にフィンランド語も身につけていこうじゃないかと。
しかし、人口530万人(現在550万人)という小さな国のフィンランド語。英語やドイツ語や他の北欧4カ国語に東隣のロシア語などヨーロッパの大多数の言語が属するインド・ヨーロッパ語族ではなく、ウラル語族というマイナーな言語グループに属します。フィンランド語に近い言語にはエストニア語とハンガリー語がありますが、英語で世界とつながりたいという野望を持ち、大学でも英米文学を専攻した私には、なかなかやる気が出ませんでした。
Olli Oilinki / Visit FInland
呪文のような言葉
初めてフィンランド語を聞いたのは、ノキアの日本支社のオフィスの中でした。当時の上司が数字をキーボード入力しながらつぶやいた「カクシ(2)、コルメ(3)、ネルヤァ(4)、クーシ(6)……」という呪文のような音。あまりの衝撃に震え上がりました。
やがて職場で知り合った元夫がフィンランドの義両親と電話で話す声を聞いていても、英語で心が通じているつもりの人が急に宇宙人化する様子に、思わず聞き耳を立てました。英語とその仲間たちのように上下たっぷりの抑揚が無いフィンランド語は栃木弁のよう。平坦な調子で話しているかと思えば、「ニーン、ニーン」と相槌を打ち、「アイヴァンッ」とさらに深くうなづき、「ニメノマ!ニメノマ!」と同意し、急に「ヴォイヴォイ」と嘆いてみたり、いきなり「ノッ!」と小さく叫んでから別れの言葉でしめるなど、全く油断ができない。
元夫の前と出会う前は彼氏がドイツ人だったので、ドイツ語を初めて聞いた時もかなりの衝撃を受けました。大好きな英語でさえも文法が大嫌いで、かなり長い年月をかけてやっと身に着けた経緯があるので、さらに新しい言語を学ぶことに対して足がすくみました。しかし、彼のお母さんが話す女性の声のドイツ語が音楽のように美しく聞こえたので、やる気がわいてきました。
きっと同じように女性が話すフィンランド語を聞けば、もっと身近に感じられるのでは?と期待していたら、思わぬ障害がありました。それは、発話をする前や最後によく使われるスーっと口で息を吸いこむ音。日本ではおじさんが演説前に出す音です。それを成人女性がする。しかも吸いながら話すこともできる。超人か?こんなの無理!と笑い崩れました。
Juho Kuva / Visit Finland
「悪魔の言葉」の良いところ
しかしそんなフィンランド語にも一つとても良いところがあります。それは、ほぼローマ字読みで書いてある通りに発音すれば読めるということ。フィンランドに初めて来た人でも地名を読むのに困ることはありません。「Espoo(エスポー)」「Porvoo(ポルヴォー)」「Sipoo(シポー)」という具合に。Jには気をつけて下さい。「Järvenpää」はジャルヴェンパー!ではありません、ヤルヴェンパーです。
ちなみに私はノキア時代の上司に子どものベビーシッターをたのまれたことがあり、5歳児にせがまれて、今では日本語で翻訳も出ている『ぐっすりメーメさん』の原本で寝かしつけをしました。翌日上司が「なんだ、君!実はフィンランド語できるんじゃないか!」と青ざめた顔で聞いてきましたが、「とんでもない!内容はさっぱりわかりませんでしたよ」と答えておきました。
そんなわけで、恐らくRの巻き舌やÄやÖやÅの音やいくつかの子音は要練習ですが、いざとなれば自分の子どもにもほぼローマ字読みで本の読み聞かせができてしまうフィンランド語。日本人にはやさしい音らしく、日本人のフィンランド語は上手だと褒められることが多いです。
他にも良い点は、ドイツ語のように名詞とセットで覚える男性、女性、中性の冠詞が無いこと。そのかわり、格変化が4つのドイツ語に対してフィンランド語は15格もあります。世界一難しいとされ「悪魔の言葉」とも呼ばれるフィンランド語なだけに魂を売り渡すような気持ちで、文法書を手に入れると、ich(ドイツ語で私)のかわりにminä(フィンランド語で私)が口から出てくるようになりました。
空耳アワーとの葛藤
Emilia Hoisko / Visit Finland
さらにフィンランド語に対する熱意が芽生えたのは、長男が保育園に通うようになり、彼が必死で身につけたフィンランド語を聞くようになってから。呪文のような数字でも子どもの声だと愛おしくて。
日本語同様に、子どもが話す言葉は音がひっくり返ることが多くて、「Äidin kanssa!(アイディン・カンッサ=ママと一緒!) 」といおうとして、「Äidin sankka!(アイディン・サンッカ!) 」といってしまう。「Televisio (テレヴィシオ=テレビ) 」が「Tevilisio(テヴィリシオ) 」になっていたり。それがもう、「とうもころし」や「おっとこしちゃった!」みたいに可愛くて。私の中で頑なだった何かがとけました。
フィンランド語には、日本語とは音だけ同じで意味の違う単語がたくさんあり、モノはスキー靴、カニはうさぎ、シカは豚。奇妙な人名も多くあり、アキ、マキ、ヨウコが男性のファーストネームだったり、アホとかアホカスとかパーヤネンという苗字の人に出会っても歯を食いしばって笑いをこらえます。
熱く話し込んでいる人達の会話から「洗濯機屋」と聞こえても、それは「sen takia(センタキヤ=そのせいで)」といっているのであり、ニュースで「お新香」が連発されていても、それは「Osinko(オシンコ=株の配当)」について報じているわけで。
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在住17年にもなるといろいろ慣れますが、移住し始めた当初はこの、つい面白い音を耳が拾ってしまう癖が邪魔してなかなか本気で取り組むことができませんでした。このような実体験からの反省点も踏まえて、フィンランド語学習者の皆さんにアドバイス。基本は文法!15変格活用と戦いながら真面目にやりましょう!わからないことがあれば、身近なフィンランド人に聞いて確認しましょう。
「……あれ?そういえば、こういう場合、どういうと正しいんだっけ?」と、ネイティブでさえ首をひねる場面に遭遇すると、笑顔がもどってきます。「心の友よ!」と叫びながら抱きつきたい衝動にかられて、あなたとフィンランド人との距離もグッと近くなりますよ。
靴家さちこ:(くつけ さちこ)フィンランド在住ライター。青山学院大学文学部英米文学科を卒業後、米国系企業、ノキア・ジャパンを経て、2004年よりフィンランドへ移住。共著に『ニッポンの評判』『お手本の国のウソ』(新潮社)、『住んでみてわかった本当のフィンランド』(グラフ社)などがある。
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